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南魚沼市(みなみうおぬまし) / 2004.11.04

 
地震の記憶も生々しい11月1日、南魚沼市が誕生した。これまでの住所は新潟県南魚沼郡六日町、群名が市名になったわけで、良く意味のわからない名前も付けられていくなかで妥当な名前だと思う。
日本全国市町村合併の波のなかでふるさとの六日町、大和町、の取りあえずの2町合併である。
 

新しい市章

合併の善し悪しはともかく時の流れというか、政治の流れというか、中央から地方へと流れが加速していくなかでは避けられない事態なんだと思う。ただし、それが地域の人にとって、あとから振り返って見た時、「あの合併をやって良かった」となるよう願わざるを得ない。良い意味の地方の力は絶対に大事だ。
卒業した小学校、中学校もなくなり、また六日町という名前もなくなる。時勢のなかで仕方がないといえ、南魚沼市が前向きに、そして希望ある前途を切り開いて行くことを切望する。


 

 
 
新潟中越地震 / 2004.11.02
 
10月23日、夕方6時過ぎ。宮崎空港で出発便を待っていた時、家族から第一報の電話が入った。
「新潟が'ひどい地震らしい、震度6強、電話したけどぜんぜん通じない」。
六日町の実家に両親がいて、長岡には二人の姉がいる。すぐに実家に電話したが、なかなか電話が通じない。震度6強などという震度は経験したことがない。(新潟地震の時でさえ震度6)しかもそれが三回続いたと聞いた時は足が震えていた。
その後何とか電話が通じ、幸いにもともけががなく、家も倒壊せずにすんだのが、不幸中の幸いでした。
しかし震源地の小千谷周辺をはじめ、まだたくさんの人が避難生活を余儀なくされているのには心が痛みます。一日も早くもとの生活に戻れるよう願っています。

たくさんの方からこちらにも、ご心配のお電話をいただきました。
 
この場を借りてお礼申し上げます。
 

 

 

酒蔵 /2004.08.20
 
 

最近たまたま二つの蔵を訪ねた。
ひとつは百年の孤独や山猫、山蝉で知られる、 黒木酒造(写真左)。宮崎県高鍋から車で30分ほど山には入る。自然の雑木林のなかにひっそりとたたずんでいる。出来るだけ周囲の自然をそのまま利用するよう配慮がされている。建築の設計は武田光史さん。焼酎蔵はその成分から建物が黒くなってしまうらしいが、これは杉を初めから黒く染めてある。なかなか渋く、武田さんらしい。

もう一つは八海酒造の新蔵(写真右)である。今年竣工し、今年の秋から稼働する。田んぼの真ん中に突然、新しい蔵を建てた。こちらもコンクリートと黒い木の組合せ。もしかしたら武田さん?
二つの蔵をみて感じるのは、どちらもこのところ元気の良い酒蔵であり、酒造りだけではなく、地域の文化や今後の建築のあり方のひとつの方向性を示しているような気がする。
また、デザイン戦略を、今後の戦略に欠かせないものとしてをきちんと捉えている。それはグラフィックデザインやwebデザインをみても判るし、建築をみても感じる。

もともと酒蔵は地域経済を担ってきた側面があり、影響力があった。今、経済だけではなくもう一歩踏み込んだところでコーポレイトアイディンティティーと地域を考えなければならない時期に来ている事を感じる。



 

 
 
X'ian 西安の事 /2004.06.15
 

 

 
鼓楼を潜った鼓楼通り
 

大雁塔と広場
兵馬俑

上海、青島、廈門など比較的海沿いの都市は訪ねたが、大陸の内部にはなかなか行く機会がなかった。
西安に行ってみた、シルクロードの出発点、長安の都。
さて訪ねた印象はまず、 おおらかだという感じ、経済化政策があからさまではなく、時間もゆっくりとしかし大きく進んでいる感じ。喧噪感もあまりない。そしてやはり大陸的。

昨年完成した大雁塔北の大広場では、中心からかなりはなれているにも関わらず。毎日夕方からかなりの人が訪れる。新しい名所になっているようだ。土曜の夜はと水と光と音楽のショーが行われていた。レーザービームなども加わりかなり華やかであり、相当の人でごった返していた。ラーメンや包子の安くておいしい店もある。

中心部鐘楼の付近は有名デパートも並んでいるが、少し離れた鼓楼通りでは露天の市が並び、夜は大勢の市民がわいわい飲み食いしている。にぎやかで楽しそう。人間の原点みたいなものを感じる。
そう、ちまちまなんて雰囲気はぜんぜんない。ごく自然に楽しく生きている。同時に大きくうねりながらものすごいパワーを発しつつある。
そんな感じを受けた。

しかし大陸から帰って日本を空から見ると本当に美しい。山と森の緑の島だ。地上に降り立つとまたちょっと違うのだが。



 

 
  
小野寺さんがやって来た。/2004.06.10
 

仕事であちこちご一緒させてもらってる小野寺康都市設計事務所野寺康さん一家が近所に引っ越してきた。なんと我が家のはす向かいである。
写真は我が家のリビングから見た小野寺邸
ボクがここにいることを知ってたか、 知らないか、良く聞いたこともないが、とにかく距離にして20m、歩いて20秒の距離である。仕上に木がふんだんに使ってあり、なかなか幸せそうな家である。
リビングに 椅子やテーブルがまだ入ってなくて不便な生活を送っているらしいが、実はそのデザインを頼まれたのはボクで、迷惑をかけています。
今度ゆっくり拝見させてもらおうと思っているが、広々としたウッドデッキの庭は圧巻らしい。
この通りは南平台3号通りとって何かと曲者?が多いことで知られている。 小野寺さんが来たことは大歓迎だが、また一人曲者が増えたことは間違いない。
とはいえ小野寺さんどうぞよろしくお願いします。



 

 


はくたか4号 /2004.04.08
 

越後湯沢から金沢をダイレクトで結ぶ。なかなかスマートな車両だ。 東京-金沢間は以前は長岡経由、または米原経由いずれかであったが、ほくほく線開業後、陸路で最も早い路線として注目された。 ただやはり普段は小松空港が早くて便利。ほくほく線経由の4時間は早いといっても少し気が引ける。二回ほど乗ったことはあったが、一度は夜、一度は一人ではなかった事もあってあまり風景も気にしなかった。

今回は新潟市から移動する用事があったので、六日町からのんびりと一人旅を楽しんだ。六日町はまだ桜はつぼみ、梅さえ咲いていない。新幹線駅が浦佐になったこともあり、すっかりひなびてしまった。はくたかも停車するのは一日わずか数本。一階はギャラリーになり駅の機能は二階だけ。
ここ六日町から直江津までがほくほく線。三十有余年、念願かなってようやく完成した第3セクターの線路だ。

発車後、すぐにトンネル。抜けたと思ったら十日町に着く。またすぐにトンネル、新潟の特に南部山間部は山々が南北に連なっているため、東西の交通が極端に悪い。松代町などはしばらくの間冬は陸の孤島と呼ばれていた。黒松が増えだし、やがて直江津に着く。一昔前では信じられない早さだ。
ここからはJR東日本北陸線。しばらくすると日本海が見え始める。晴天の日の日本海は本当に美しい。またまたトンネルが多い。トンネルを抜けると左に妙高山が見える。日本海と残雪の残る景色は絶妙だ。
まもなく糸魚川に到着。ここからはJR西日本。静岡糸魚川線フォッサマグナの糸魚川である。ここを境に電車も東西、電気も50、60Hzが切り替わる。
まもなく左に朝日岳、白馬岳を見ながら、海の難所親知不を通過、線路はほとんどトンネル、道路は今は北陸自動車道が海に突き出た形で難所をさける。この高速道はしかし、美しく厳しい海の絶景と何とも不釣り合いな風景をつくってしまった。

富山県に入り、まもなく入善(にゅうぜん)という駅に着く。左の車掌からは黒部の山々が見えてくる。このあたりから日本海の風景と分かれ、黒部駅着、ほんの少し走りすぐに魚津に到着、駅には蜃気楼の見えるまち魚津と書いてある。あとで調べるとシンキロード(ホントかな)という場所があり、いくつかの条件が揃うと海の上に町が見えるらしい。富山地方鉄道の分岐点でもある。
そして越中富山、薬売りと越中ふんどしがまず頭に浮かぶ、薬工場は確かに点在している。考えてみると越後、越中、越前を結んでいるわけだがこの越とは何を指しているのだろう。恐らく京から見た高い山々、日本アルプスを越えた向こうの前、中、後なのだろう
富山着、高層のホテルやビルが建ち並びひさびさに大きな都市に着いた感じ。 高岡に向かう。

工芸のまち高岡。そのせいかどうか知らないが、駅前には巨大な線路のモニュメントがある。確か10年ほど前スペインの建築家がデザインしたものだったと記憶している。今それがどういう評価をされているか知らないが'、バブルの置物というか、ちょっと不釣り合いな印象だ。たださすがにまちなみの統一感はあり黒瓦の屋根がきれいだ。次はいよいよ終点金沢、左前方には白山が見え始める。北陸新幹線の高架橋が見え始める。

あと何年かすると東京-金沢はこの新幹線が取って代わる。はくたか号もなくなり、ほくほく線は利用客ががた落ちになるのは必至だ。



  
板甚 /2004.02.10
 

板甚玄関(上)と殿様料理

越前、福井県勝山市に出張に行く機会があった。ちょうど何年かぶりの大雪で事故も重なり北陸線、えちぜん鉄道とも不通になった。 小松空港からバスを乗り継ぎ、のろのろと雪道を進み、ようやく勝山に到着するまで8時間。もうあたりは暗くなっていた。遠かった。 勝山は5年ほど前に勝山橋の仕事をしていたので、冬もちょくちょく来ていたのだが、これほどの雪は初めてだった。
泊まった宿は板甚(いたじん)という旅館。名前の響きもいい。江戸時代から400年続いた老舗である。切り盛りは女将と旦那さん二人でやっているらしい。

本町通りという旧街道の風情の残る通りに建っている。まだ養蚕が盛んだった頃は訪れる客も多く、とてもにぎやかだったらしい。
部屋に入ると床の間に新聞が置いてある。見ると司馬遼太郎の街道を行くの記事、20年前の「北国街道を行く」であった。 何でもその旅の一番の目的はこの板甚であったと書いてある。当時の女将さんの事が細かく書かれている。お茶を入れてくれた女将さんを見て、ああこのひとだと容易に想像できた。
夕食は蔵の土蔵の中である。 冷え冷えとして寒いが不思議な空間の重みと安心感がある。薄明かりの中で日本酒を飲みながら殿様料理をいただいた。

「福井市から嫁いで40年になります。ずっと同じ事をやっています。 旅館は何も変わっていません。料理も同じです。」と言う。
「変わらないことはとても大事なことだし、勇気もいることです」と言うと「はいそうです。」と一言、少し遠くを見るような視線で言った。